出羽上山に領主土岐氏が創建した春雨庵が延宝元年(1673)土岐頼行のとき、江戸・品川宿、東海禅寺境内(現在地)に移建され、幾つもの変遷を経て今日に到っている。
先々代住職のとき、昭和23年、宗教法人法施行を期に大徳寺を離れ、単立(たんりゅう)寺院となる。以来、何れの宗派にも属さず、先々代・先代住職の宗教理念、仏教解釈に基づいて単立を堅持し、世襲で今日に至っている。かつては臨済宗に属していた。
江戸の時代、品川宿の十余の塔頭を擁した東海禅寺の内にあって春雨庵(しゅんぬあん)と呼ばれていた寺院であり、とり分け、第三将軍徳川家光から東海禅寺の開山に迎えられた沢庵和尚には縁りの深い寺院である。沢庵さんの絶筆とされる『夢』一文字の書や雲谷筆与の筆による絹本墨画『沢庵和尚像』、土岐頼芸の筆による紙本墨画『鷹図』などの東京都指定有形文化財を所蔵している。
JR大崎駅から山手通りに出て東へ15分、居木橋を渡り新幹線と山手線のガードをくぐったところ。京浜急行・新馬場駅を降り、第一京浜と山手通りの交差点から山手通りの右側を西へ10分、東海道本線のガードをくぐって第一三共の隣り。8階建ての足元にある。
小さなサツキの植込みに囲まれてコンクリートの塊に埋め込まれた三枚の陶板の『春』『雨』『寺』を右に廻りこみ、屈曲したコンクリート塀と手摺にいざなわれて石段を上り、参道を進む。
寺務所と講堂の入口を右に見て正面に小さなお堂。『如来堂』の扁額がかかっている。このお堂がこの寺の本堂。飾り気のない須弥壇の厨子に室町時代の作と云われるご本尊がまつられている。足下の黒御影の床石に五色のステンドグラスの格天井が映り、さわやかで特異な小空間で法事が営まれる。
多くの檀信徒が戦争で家や職を失い、郷里に帰ってしまった結果、檀家が激減。寺の運営の形も自ずと変化。法事に寄る人の数も20名を超すことが無くなったことが理由で本堂の規模は実質的に椅子式20名とされた。
摺りガラス管と色ガラスによる華やかな法輪で飾られた玄関ロビーを持つ講堂には130の固定椅子と奥行き5.4メートルの舞台が設けられていて、寺の教宣活動に場を提供している。
如来堂の脇を奥に進み、石段を登ると平坦に整えられた大山墓地。ここに、沢庵さんがまつられ、かつては東海禅寺の塔頭の一つであった『東海寺』によって美しく管理されている。
石段の手前を右に折れ、小さな坂の下に一般檀家の墓、久遠塔、当寺ゆかりの土岐家の墓、万霊塔、代々住職とその家族の墓がある。
先々代住職の手植えによる区の指定・イチョウ一本と幾らかの竹を残して、墓地以外の境内地は丸一年、更地にして休ませ、先代住職のかたくなな、壇信徒には経済的負担を一切掛けないと云う計画に従って、一部境内地を処分し、10年余の準備期間と2年の工期を費やして、平成4年、現在の施設が落慶した。
賃貸共同住宅2戸5層の10戸が寺院建物に併設されているのは、寺院施設の維持管理費を捻出し、壇信徒に経済的負担を掛けない計らいに因るものである。